「潮嶽神社縁起」によれば、

主祭神 火闌降命(海幸彦の命)は、海幸・山幸の争の時、磐船で満潮に乗り潮嶽の里にお着きになり、ここに宮居を定められたと伝える。

神社からは、潮満玉や潮干玉に由来する越潮山・潮越山が望まれ、付近には、乗って来られた磐船が沈むと伝えられ賢所や、誓いの森とされる潮高座。

御祭神の御陵である大塚(王塚)などの伝承遺跡が散在している。

また海幸・山幸の争いに因んで縫い針の貸借がタブーとされ、初宮詣にあたっては、額に”犬”の字を書くという隼人の宮廷奉仕の古俗を偲ばせる習俗がある。

魚釣舞を含む潮嶽神楽や、神武東征の折、別れを惜しみ里の乙女が舞ったことに由来する御神子舞等の神事芸能も現存し、祭典時には大マグロや十数頭の猪頭も奉奠されるなど、海幸・山幸の御祭神の御神徳に因む漁業や狩猟の信仰が厚い。

 遥か神代の息吹が悠久の時を経て、今なお、伝承遺跡・習俗・神事芸能・信仰などの”神話的コスモス”を形成している。

 江戸時代正保の頃に火災に遭い、古文書等の資料が失われた為、それ以前のことはつまびらかでないが、口碑によれば社殿の創建は神武の朝と伝えられ、旧称は潮嶽大権現。海幸山幸の神 農耕の神開運 心願成就の神 郷土の産土神(隼人の祖)として、鵜戸大権現(鵜戸神宮)榎原大権現(榎原神社)と共に、日向三権現として崇敬されてきた。

 藩政時には社録が付され、大祭には飫肥藩主 伊東公より太刀一口 並びに 幣帛料が奉納された。

明治維新の後は 潮嶽神社と改称し、今日に至っている。



       潮嶽神社